太宰治 桜桃のあらすじ│内面の不安に怯えた太宰自身がモデル
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最終更新日:2023/08/30
太宰治(Dazai Osamu), 文学(Literature), 本(Book)
太宰治「桜桃」のあらすじを紹介します。
桜桃は、家事や育児ができず、子供の問題に正面から向き合えずに浮気に走った、太宰本人の影響が色濃く出ている作品です。
1.涙の谷
主人公は小説家で、妻との間に三人の子供がいる。子供は七歳の長女と、四歳の長男、一歳の次女だ。子育ては忙しく、夫婦は下男下女のように子供の世話を焼くことにかかりきりになっている。
本当は「子供よりも親が大事」と思いたいが、いつの間にか親の自分の方が弱い立場になっている。
ある夏の日、家族が三畳間に集まって食事をとっていた。妻は次女に乳をやりながら、忙しく他の子どもの世話を焼いている。主人公は自分が汗かきで、鼻の頭に汗を浮かべていることを話題にし、妻にも一番汗をかく場所はどこかと、冗談交じりに聞いた。
すると妻は真面目な顔になり、「この、お乳とお乳のあいだに、……涙の谷、……」と答えた。
2.表面を取り繕う道化
主人公は家庭でいつも冗談を言って、場を取り持っている。
人と会うときも同様で、どれだけ心が苦しくても、体が辛くても、楽しい雰囲気を作ることに力を注ぐ。作品も、心が悲しい時こそ、明るくなるように努めている。しかし、ひとたび一人になれば、欝々(うつうつ)とした思いにとらわれ、自殺のことまで考えるようになる。
内心と裏腹に楽しい雰囲気を作り出そうとするのは、主人公は生真面目で、気まずい場の空気に耐えられない性質の人間だからである。
家庭で冗談ばかり言い、部屋も片付けて夫婦げんかもせず、子供を大事にしているのも、全ては自分にとって耐えがたい重たい空気を作らないようにするためだった。
しかし、夫婦は互いに、それぞれの心の中に苦痛が満ちていることに気付いている。気付いていながら、表面上は何事もないかのように振る舞っている。
主人公は家事も子守も全くできず、物資配給のこともわからず、布団すら自分で上げない。子供と関わるのは冗談を言うときだけで、役に立つことは何もできない。全部妻に任せっぱなしで負担をかけ、冗談だけ言って取り繕っている。
仕事に注力しているように見えるが、一日に出来るのは原稿二、三枚だけ。さらに、外には若い「女友達」を作っている。
3.問題からの逃避
子供に関しても問題がある。
長女は大丈夫だが、次女はまだ乳飲み子で目が離せない。特に長男は四歳になるにもかかわらず、言葉も理解できず、ハイハイしかできない。夫婦はこの子が障害を持っているのではないかという問題から目を背けて話題にするのを避け、時間が経てば勝手に人並みになるという幻想を抱えて黙っている。
時折、新聞で親が障害を持つ子供を苦にして心中を図った記事を見るたび、主人公は自分も同じようにするのではないかと恐れ、やけ酒を飲む。小心者なので、小説を書くときの苦痛から逃れるためにもやけ酒を飲む。
また、主人公は議論にとても弱い。
押しが弱いので言い負かされ、後になって思い直して嫌な気持ちになる。尾を引く不快な憎しみを紛らわせるため、またやけ酒を飲む繰り返しになる。そうして酒を飲むと、体調を崩して二、三日寝込む羽目になる。
4.夫婦喧嘩
夫婦が水面下で抱えているいびつなヒビが、「涙の谷」の言葉を機に外側に浮かび上がりそうになった。
主人公は妻や子供に手を上げることはもちろん、口げんかすらしなかったが、その実、内側には互いの腹を探り合って、悪事の証拠固めをしているような危険な部分もあった。
「涙の谷」の一言は、育児に全く協力せずに、妻だけが多大な苦労をしていることを暗に責める言葉だった。主人公は心中で言い訳を並べ立てるが、言い負かされることが分かっていたので口には出さなかった。
主人公は、誰かを雇うように提案してみた。
だが、妻は来てくれる人がいないという。夫はつい、妻が人を使うのが下手で、居ついてくれる人がいないのだというニュアンスのことを口に出してしまった。
言わんとすることをすぐに見抜いた妻に、主人公は口を閉ざした。気まずい雰囲気に耐えられなくなって、今夜中に書き上げないといけない原稿があると、部屋に逃げようとした。
だが、妻も今夜は出かける予定があった。病気の妹が重態に陥っている、その見舞いに行きたいのだ。
そうなると、主人公が子供の面倒を見なくてはならないが、出来るはずもない。人を雇えという言葉は、また余計な争いを生み出して自分がみじめになると考えて言い出さなかった。
5.逃げる夫
仕事部屋に入った主人公は、引き出しを開けて稿料の入っている封筒を取り出し、原稿や仕事道具の辞典をとって外に出た。家庭内のややこしい問題から目をそらし、子供のお守りをする役目も放り出し、妻を妹の見舞いにも行けないようにした。
つまりは逃げたのだ。
逃げた主人公は馴染みの酒場に転がり込んだ。仕事どころか自殺のことばかり考えており、酒に逃げずにはいられないのだ。酒場ではなじみの「女友達」がいた。主人公の好きそうな着物を選んで着ている。
主人公は、「夫婦げんか」で逃げてきて、今日は泊まって飲み明かすつもりでいると女友達に話した。彼女は桜桃を出してくれた。
6.桜桃
主人公の家では普段は子供たちに贅沢なものなど食べさせない。もしかすると、桜桃などは食べたことどころか、見たことすらないかもしれない。持って帰れば喜ぶはずだ。
だが、主人公は持って帰ることなどせず、全て一人で食べていった。不味そうに食べては、種を吐き出す。心の中では虚勢のように「子供よりも親が大事」というフレーズを繰り返していた。
自分は弱いので子供に関わる力はないので、酒場に逃げてきても仕方がないし、桜桃を持って帰らずに食べてしまっても仕方がない。親の方が子供より弱いので、大事にされないといけないのだ。
7.まとめ
表面上の明るさに隠された内面の不安を持ち、それを抑えるために酒に走り、妻以外の女性とも関係を持つ男というのは、太宰治の小説に多く見られる人物像である。この人物像は太宰の人生が下敷きとなっており、「桜桃」の主人公も太宰自身がモデルである。
作中では「太宰」なる作家が、主人公の作品を軽薄で安易であると評しているシーンが出てくる。これは太宰自身が自分自身を批判しているものと考えることができる。
人間失格やヴィヨンの妻、斜陽などに出てくる、上記の特徴を備えた人物は、社会的に見て「ダメ人間」「ダメ男」として描かれているのに対し、「桜桃」では家庭における振る舞いに焦点を当てて、「ダメ亭主」としての側面も描かれていることが特徴である。
家事、育児が全くできず、協力もせず、出来るように努力したり挑戦したりする素振りさえ見せない。自分に役割が振られそうになるとすぐに逃げ出し、あまつさえ浮気もしている。子供達には優しい父親で、実際に大事に思っているようだが、思うばかりで行動は伴っていない。
「桜桃」を執筆した当時、太宰には七歳の長女・園子、四歳の長男・正樹、一歳の次女・里子(作家名:津島佑子)の三人の子供がいた。
次女の津島佑子は、正樹にはダウン症によるものと見られる知的・行動障害があったことを後年に明かしており、作中の長男の様子は正樹の発育状態を元にしたものであったと考えられる。
子供が障害の診断を受けた場合、親は事実の重さからショック状態になる。
主人公夫妻が子供の成長の遅さについて、知的障害か言語障害か、それとも病気なのかの診断を受けずに、話し合うことも避けて問題を留保しているのは、この重大なショックを受け止める自信がないためであったのだろう。
ダウン症の原因が判明したのは1959年、WHO(世界保健機関)が正式名称として設定したのが1965年だったので、1948年当時は適切な診断とアドバイスができる専門家はいなかった。
正樹は十代初めごろには、口頭で簡単な意思表示をして、ごく限られた文字と数字を書けるようになっていたが、十五歳で肺炎によって死去している。
「桜桃」は1948年5月に発表され、同年6月13日に太宰は愛人の一人・山崎富栄と共に入水自殺した。結核を患ったことで将来に不安を抱いたことの他、正樹の障害の重さを苦にして耐えかねたことが、自殺の原因になったのではないかともいわれている。
二人の遺体は太宰の誕生日である6月19日に引き上げられ、この日は「桜桃」にちなみ、「桜桃忌」と名付けられた。
生誕地の金木では毎年行事が行われていたが、生誕地では生まれたことを祝う祭りの方がふさわしいという遺族の要望もあり、生誕90周年の1999年から「太宰治生誕祭」へと行事名が変更された。
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