太宰治 思い出のあらすじ│幼いころから青年になるまでの、体験や思いを綴る自伝的作品
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最終更新日:2023/08/30
太宰治(Dazai Osamu), 文学(Literature)
太宰治の「思い出」のあらすじです。
この作品は、幼いころから神経質で劣等感や不安と闘ってきた太宰自身の体験や思い出がベースになっていると思われる作品です。
**目次**
第一章
1-1.親についての記憶
太宰治は昭和四十二年の夏に、青森県北津軽金木村で生まれた。
家族は、曾祖母、祖母、父、母、兄三人、姉四人、弟一人、それに叔母(きゑ)と叔母の娘四人の大家族だったが、五、六歳になるまで、太宰には叔母以外の人についての記憶はほとんどなかった。四つ頃に叔母と二人で親類の村に行ったときの記憶や、叔母が自分を捨てて出ていく夢を見た記憶などは深く残っているが、父母についての思い出はほとんどない。
六、七歳になると、女中のたけから本を読むことを教えられ、二人でたくさんの本を読み漁った。太宰は病弱だったので、寝ながら本を黙読し、読む本がなくなればたけが日曜学校から借りてきた。
父母は東京に住んでおり、太宰も叔母に連れられて東京に行って長く滞在したはずだが、やはり記憶にはあまりない。時々訪れる老婆が嫌いだったことだけである。
1-2.小学校入学
故郷の小学校(金木第一尋常小学校)に入ったころ、たけは他所に嫁に行ったためにいなくなっていた。太宰が後を追うだろうと考えられたためか、居所も知らされなかった。翌年あたりにもう一度会ったが、成績を聞かれただけで特に褒められることも無かった。
同じころ、叔母が長女夫婦を連れて遠くに分家したので、叔母とも別れなくてはいけなくなった。こうして育ての親は皆、太宰の元を離れてしまった。
太宰の父(源右衛門)は非常に忙しい人で、家にいることはあまりなく、いても子供と一緒にいることも無かった。太宰は父を恐れており、米蔵で弟と遊んでいて叱られた時の恐怖は後年にも思い出すほどであった。
母(夕子)に対しても親しみを覚えることは無かった。乳母の乳と叔母の懐で育ち、たけに教育を受けた太宰は、小学校二、三年になるまで母のことを知らなかった。
小学校において、太宰は一年生から作文の才能を発揮して教師を驚かせている。成績は非常に優秀で、全教科甲判定で総代を務めたほどであった。
1-3.精神不安定と自己顕示欲の萌芽
太宰は早くからおしゃれに興味を持ち、袖口にボタンがついた白いフランネルのシャツと白い襦袢を来ていた。同時に、気を使っていることを知られたら笑われるだろうという思いから、あえて無関心を装っていた。
そのせいで野暮ったいと思われて顔が悪いと言われつつ、心の中では自分が良い男と思っていたので、女中が長兄の方が良い男だと言っていたときには悔しい思いをした。
顔だけでなく、立ち居ぶるまいが不器用だということで、祖母にも気に入られておらず、太宰にとって苦手とする存在であった。
太宰は近所に芝居小屋がかかったときは毎日のように見に行き、ついには弟や親類の子たちを集めて一座を作り、下男や女中を集めては催し物をしたが、祖母は河原乞食のまねごとをするなと罵ってた。
例外的に祖母の存在がありがたく思えるのは、夜になって眠れない時だった。
ちょっとした心配事や気に病むことがあると、夜遅くまで眠れなくなった。家人が皆寝てしまう時間になっても、祖母だけは起きて夜番の爺と話をしており、太宰はその間に入って話を聞いていた。ある秋には遠くから祭りの太鼓の音が聞こえてきて、まだ起きている人がいると心強く思ったりもした。
1-4.兄弟・姉との関係
長兄(文治)は東京の大学にいたが、帰省の度にいろいろと新しい趣味を持って帰ってきた。中でも太宰の興味を引いたのはレコードで、洋楽よりも邦楽の方に早くなじんだ。
しかし、長兄よりも次兄(英治)の方が太宰にとって身近な兄だった。次兄は東京の商業高校を卒業後、実家が経営する銀行に勤めていた。母や祖母は太宰の次に不細工なのが次兄だと言って冷遇しており、次兄は毎日のように酒を飲んで祖母と喧嘩した。
末の兄(圭治)には様々な秘密を握られていたので、太宰はこの兄を煙たがり、互いに反目していた。また、この兄と太宰の弟(礼治)は顔がきれいだと周囲から褒められていたので、間に挟まれた太宰は肩身が狭い思いをしていた。
弟は父母に愛されていたので、太宰は嫉妬に駆られて弟を時々殴っては母に叱られ、母のことを恨んだ。
男兄弟とは色々な確執があったが、姉たちには可愛がられた。一番上の姉(たま)は太宰が三歳の頃に亡くなり、二番目の姉(とし)は早くに嫁ぎ、後の二人(あい、きよう)はそれぞれ違う町の女学校に汽車で通っていた。汽車のある街までは家から三里(約12km)ほどあり、夏は馬車、冬は歩いて行き来していた。
上の姉の学校がある町は、下の姉の学校がある町よりも小さかったので、上の姉が持ってくるお土産は少し貧しげっだった。ある時は、何もなかったということで線香花火をいくつか持ってきてくれて、太宰は胸が締め付けられる思いを味わった。だが、家人はこの姉の器量が悪いといつも言っていた。
1-5.高等小学校への入学
ほどなくして小学校を卒業したが、体が弱いということで高等小学校(四カ村組合立明治高等小学校)に一年だけ通わせてもらうことになった。体が丈夫になれば中学校に入れてもらえると父は言っていた。太宰自身は中学校に興味はなかったが、残念そうな様子を見せて先生の同情を引いていた。
高等小学校は複数の町が共同で建てたもので、街から離れた場所にあった。病気のためにしょっちゅう学校を休んでおり、自分の町の代表であったにも関わらず、碌に勉強もしなかった。授業中はノートに漫画を描いたり、ぼんやり窓の外を眺めたりして過ごし、時には友達と外に逃げることもあった。
ここで太宰は勉強に身が入らなかったと書いているが、成績そのものは優秀であった。ただし、さぼり癖のためか修身・操行の項目は乙判定にされている。
学校は男女の共学だったが、太宰が自分から女生徒に近づくことは無く、知らないふりをしていた。興味はあったものの、見栄坊であったために誰にも打ち明けずにいた。遠い学校に歩いて通っていたおかげで体が大きくなってきたが、同時に吹き出物が出て恥ずかしい思いをし、ニキビのための薬を塗りたくっていた。
後々になってもニキビはなかなか治らず、自分の内側に隠している欲情に関する思いが吹き出ているような気がして、太宰をひどく悩ませた。
1-6.父の死
冬が近くになると中学校への受験勉強を始めなくてはならなくなっていた。雑誌の広告を見て様々な参考書を東京から取り寄せたが、本棚に並べただけで何もしなかった。受験者の倍率は二、三倍あり、落第の懸念に襲われた時には勉強をした。
一週間近くも夜十二時まで勉強して、朝四時に起きる生活をしていると、成績も及第点に近づいていた。
翌年の三月四日、貴族院議員を務めていた父が東京の病院で亡くなった。地元の新聞社は号外で訃(ふ)を報じ、太宰の家は一カ月ほど火事のような大騒ぎとなった。この間、太宰は勉強を全く怠っており、記憶力の減退を感じて、試験ではほとんど何も書けないままでいた。
二章
2-1.青森の中学校へ
いい成績ではなかったものの、太宰は何とか中学校に合格し、青森に移った。有頂天になりやすい太宰は、銭湯に行くにも学校の制服を着て格好をつけたが、実際の学校については全く面白く感じなかった。学校の見た目は良かったが、教師からひどく嫌われたためである。
入学初日から体操の教師にぶたれた。彼は入学試験時に父の死について同情してくれた人物であったため、ぶたれた時のショックは大きかった。その後もしょっちゅう殴られ、友人は太宰の態度が生意気そうに見えるからだと忠告した。
このままでは落第するに違いないと友人に言われて太宰は愕然とした。自分がいずれ偉くなるだろうと考えていてプライドも高かったので、落第の不名誉は致命的だった。
その日より、太宰は周囲に敵がいると仮定して授業を受け、窮屈な勉強も努力して行った。その結果、テストの成績は良く、クラスで三番になり、操行も甲の評価をもらった。
小学校の時に示したように実力は高く、この頃から卒業まで級長であり続けた。「やればできる男」ではあるのだが、追いつめられない限りやる気が出ないタイプの人間であったようだ。
2-2.体育会への不興と女性への興味
夏休みを挟んで秋になると、中学校同士のスポーツ対抗試合が始まった。太宰は野球もテニスも柔道も楽しめなかったが、応援には行かねばならず、そのせいでなおさら中学生活が嫌になった。
太宰もそれまでに全くスポーツの経験がなかったわけではなく、生来の血色の悪さを克服するために、中学に入ってからは海で泳いだり、下宿の裏にある広い墓地でランニングをしたりしたこともあった。そのおかげで走ることはうまくなり、筋肉もついたが、顔色は相変わらず悪いままだった。
スポーツ自体は嫌いではないが、体育会系のノリにうんざりして部活はしない生徒というのは、現在でも珍しくない存在である。一緒になって騒ぐことに興味を抱かない性質だったのだろう。
また、この頃の太宰は顔に興味を持っていた。手鏡で表情の演出を練習し、下の姉が入院した時は顔芸を披露した。太宰が来ないと姉は寂しがり、太宰が見舞いに来たときは姉の容態も良くなるのだと付き添いの女中は言っていた。
同じクラスの女生徒とひそかに心を通わせることもあった。プライドの高さから思いを相手に打ち明けることは考えもしなかったが、相手も無口なので話し合うことは無かった。
同時に隣の家に住む女性とのことも意識していたが、あえて無視したような姿をしてアピールすることを繰り返した。
どの女生徒ともそれ以上に進んだ関係にはならなかったが、一人でいる時には鏡相手にウインクして見せたり、机に薄い唇を掘ってキスしたりしてみた。ただ、後になって忌まわしく思い、削り取っただけになった。
女性への興味を持ち、プライドや恥の感情が邪魔して外に出すことができないという感情は、現代でも多くの男子生徒に共通していることだろう。時代が変わっても、当時から男の子が抱える悩みは変わらない。
2-3.作家への志
三年生になったころ、太宰は自分の将来について考え始めた。表面だけいろいろな格好を付けることにこだわってきたが、実際には自分がどうしたいのかということについては考えが及ばなかった。結局、いろいろと思案の末に作家になろうと思い立った。
まず、中学校に入学して同じ部屋に住むようになった弟と、五、六人の仲間と共に同人雑誌を作るようになった
。
だが、長兄は太宰が文学に熱中するようになったのを心配し、長い手紙をよこしてきた。化学のように理論がはっきりしている物と異なり、文学の場合はある一定の年齢や環境に達した者にしか理解することが許されない部分があるので、年若い時分にあまりのめり込まないようにとのことだった。
太宰自身は自分がそうした「許された者」であると自負し、衆に優れてなくてはいけないという強迫観念じみた思いも持っていたので、文学のために勉強を怠ることなく、むしろ文学に傾倒しているからこそ一層勉強するようになったと返事をした。
事実、太宰はよく勉強をしてクラスでも主席の地位におり、怖い柔道部の主将や人気者の美少年からも慕われていた。
2-4.弟との和解
問題ないように思われていた学生生活だったが、吹き出物がたくさん出ることが大きな悩みになっていた。自分では欲情の念の現れのように思えて気恥ずかしくなり、家族からは嫁に来る人がいないだろうと言われる始末だった。
太宰はそれを気にしてせっせと薬を付け、弟もよく薬を買ってきてくれた。
一つの部屋で寝起きを共にしてきたことで、この頃には太宰も弟のことがよくわかるようになり、以前の仲の悪さも解消されていた。弟は成績の悪さを気にしており、内気で無口になっていた。
太宰は自分と同様に悩みを抱える弟に気を許し、何もかも打ち明けていた。
唯一打ち明けなかった例外は、実家に新しく来たみよという小間使いが気になっていることだった。みよは太宰が寝しなにタバコを吸うことをいつの間にか知り、床を延べる際に煙草盆を枕元に置いてくれていた。
あるとき、町に浪花節の興業が来たとき、太宰と弟は面白くないので蛍を獲りに行き、虫蚊帳の内側に飛ばして観察した。みよも蚊帳の傍でたたずんでそれを見ていた。使用人とはなるべく口を利かなかった太宰も、そのときはみよに浪花節が面白かったかどうか尋ねたが、みよは「全然」と答えた。
この頃から、太宰はみよを意識するようになっていた。
三章
3-1.恋の悩み
四年生になると、太宰の部屋には二人の友達がしょっちゅう遊びに来るようになっていた。太宰はその二人と物を食べたり、でたらめな知識を吹聴したりして遊んでいたが、みよのことは相変わらず内緒にしていた。
だが、あるロシア作家の長編作品に出てきた、女囚人の経歴が気になった。彼女は主人の甥にあたる貴族の大学生に誘惑され、最終的に女囚に身を落とした。
自分とみよのことを表しているような気がして、とうとう弟に相談したが、弟はみよと交際したところでそんなことにならないんじゃないかと言った。友人に聞いてみても、返事は似たような物だった。
3-2.自意識過剰な空回り
四年生の時の夏休み、太宰はこの友人たちを連れて実家に帰った。三人で高校受験の勉強をするためだったが、太宰はみよを見せたいという気持ちがあった。
三人は裏にあった大きな鶏舎の番小屋で勉強し、昼時にどの女中が来るかについて盛り上がった。ある日は弟が一緒に勉強していたが、弟だけは庭で歩きながら英単語のカードをめくっていた。太宰はその姿を見て、実は弟もみよに懸想しているのではないかと勘ぐった。そのときは結論が出なかったが、弟との間に奇妙なしこりが生じた。
ある日の食事ではみよが食事中の四人をうちわであおぎながら給餌していたが、どうも太宰よりも弟の方を多く仰いでいるような気がした。太宰はみんながみよが弟のことを思っているのを知って黙っているのだと思って、みよのことを忘れようとした。
しかし二、三日たって、みよが自分の煙草を家族に見られないように取っておいてくれたので、気を良くした太宰はみよと関係を進めたいと考えなおすようになった。大した幼児でもないのにみよを呼びつけ、わざとくつろいだ格好をしてみよから声をかけられることを願ったが何もなかった。
夏休みが終わるころになって何とかみよに忘れないでいてもらおうとしたが、特に何かが起こることは無く、太宰は学校に戻っていった。
みよも弟も何も言っておらず、太宰だけが些細なことに反応して気分をころころと変えるあたり、自意識が過剰になって空回りしている様子をうかがわせる。
3-3.道化の恋
秋になると、母と入院していた姉が、家を借りて湯治をしている温泉町へと弟と共に移り、そこから学校に通うようになった。太宰は秀才という自己評価を守るために必死で勉強し、みよのことも忘れたようになっていた。
だがある日、太宰が義侠的な行為によって教師に殴られ、それに怒ったクラスが学校に抗議をしようとする事態が生じた。結局、教師が太宰に謝り、友人とも仲直り出来たが、この一件は太宰の心に影を落とし、みよのことを思い出させるきっかけとなった。
母と姉が湯治から家に帰るついでに、太宰も実家に帰った。その夜、太宰は女性を思う心は凡俗ではないかという思いに悩まされたが、自分の考えることはもっと高潔な思想に基づくものだと言い聞かせて納得した。
あくる朝に太宰はみよを連れてブドウ狩りに出かけ、みよが手を虫に刺された時にアンモニアの瓶を渡してやった。
午後に津軽へと戻ったが、太宰はみよは自分のことは忘れられなくなるだろう、もう自分の物だと思って満足していた。
3-4.恋の終わり
冬になって中学生最後の休暇として実家に帰ったが、みよの姿はなかった。
次兄によれば、祖母といさかいを起こして家に帰されたという話だった。だが、鶏舎の番人によると、みよはある下男に暴行を受け、そのことを他の女中に知られて、太宰の家にいられなくなったらしい。
犯人の下男は他にもいろいろと悪いことをしていたので、太宰が帰ってくるよりもはるか前に、家を放り出されていた。
冬休みが終わりに近づいたころ、太宰と弟は文庫蔵に入って、古い絵画や掛け軸、写真を眺めていた。弟が箱に入っていた多数の写真から、叔母と母、付き添いをしたみよの三人が写った写真を見つけた。
その頃には太宰の心の中からみよに関する弟とのしこりも消えていたので、比較的冷静に写真を見ることが出来た。すると、太宰は叔母とみよがなんとなく似ていると感じた。
太宰は親代わりであった叔母の面影を無意識のうちにみよにみいだし、それを恋心と勘違いしていたのかもしれない。いずれにしても、すべてはむなしい結果に終わった。太宰がみよに何かを告げていれば変わったかもしれないが、自分の感情がただの思い上がりであったときに受けるダメージがプライドを大きく傷つけ得ることを考えると、一歩を踏み出せないでいたこともうなずける。
後年、太宰は多くの女性と浮名を流すことになるが、それはまた別の話になるだろう。
まとめ
思い出は太宰が四歳から中学三年になるまでの出来事や思い出について書いた自伝的作品である。なお、太宰の本名は津島修治であるが、作中では治と呼ばれている。
内容は三章に分かれており、一章が小学校入学前から中学校に入学する直前まで、二章が中学校での生活、三章が三年生の時に感じた小間使いのみよに対する思いについてである。
第一章では、治という少年と家族のかかわりがどのような物であったのかを知ることができる。太宰は津島家十子六男として生まれた。一番上には兄が二人いたが早世したため、作中の長兄の文治は実際には三男である。
母の夕子は病弱であったため、太宰は生まれてすぐに乳母の佐々木サヨに預けられ、1歳弱のころから叔母のきゑに、二歳からは子守女中の近村たけによって育てられた。こうした経緯から、太宰には母の記憶は非常にあいまいで、叔母やたけが彼にとっての母となった。太宰は自分が成績優秀・品行方正な兄達に比べると破天荒な気があったのは、自分だけがたけに育てられたためではないかと「津軽」にて推測している。
小学校から高等小学校にかけて、後の太宰を象徴する文学の優れた才能と共に、堕落しやすい傾向、プライドの高さ、表面の取り繕いといった面も見て取れる。
第二章で、青森の中学へ進んだ時期には、女性への関心から弟の間にしこりや和解があったり、作家を志すことを決めたりと、将来作家となる太宰の作風が垣間見えるような生活を送っている。
第三章が終わった後、太宰は中学校を通常(五年制)より一年早く、百六十二名中第四席で卒業し、官立弘前高等学校に入学した。
優秀な成績を保っていた太宰だったが、十八から十九歳前後にかけて、本格的に文学にのめり込みはじめ、同時に花柳界への出入り、成績の急激な低下、左翼運動への傾倒といった道をたどっていくことになる。
長兄が警告した通り、文学に関わるには太宰が若すぎたのか、それとも高等学校に入学した際の環境の変化によるものか、後の太宰作品にみられる、暗く堕落した人生に転がっていくことになった。
この後の人生が、優れた太宰作品を生み出す原動力になっているのが、皮肉といえないことも無い。「思い出」で描かれた時期の出来事は、「津軽」を始めとする明るい部類の太宰作品に影響を与えており、青年期以降の暗い人生が「陰」の部分であるとすれば、この時期までの人生は「陽」の部分を作り出す元になったのだろう。
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