中島敦 名人伝のあらすじ│名人とは何か? 中島敦の遺した寓話
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最終更新日:2023/08/30
文学(Literature), 本(Book)
名人伝は1942年12月に発表された作品で、中島が同じ月の4日に死去したため、事実上彼の遺作の一つである。
題材となっているのは、春秋時代に列禦寇(れつぎょうこう)という人物が著したとされる8巻からなる文献「列子」で、登場人物の多くは5巻「湯問」にその名が見られる。
列子は道家の思想を数々の寓話によって示した本であるため、それゆえに名人伝も寓話的な内容となっている。他の中島作品が同じように戦国時代の書物を題材としつつ、筋がはっきりした話になっているのに対し、最終的な解釈が読者にゆだねられた内容であるため、専門家の間で様々な説が立てられてきた。
**目次**
1.弓の名人を目指す男
かつて趙(ちょう)の邯鄲(かんたん)の都に、紀昌(きしょう)という男が住んでいた。紀昌は天下一の弓の名人になることを志し、弓を手にすれば右に出る者がいないと評判の飛衛(ひえい)に弟子入りすることにした。飛衛は百歩離れた場所から、柳の葉をも百発百中で射貫くと言われている。
趙は紀元前403~228年の間に、現在の中国北部にあった国である。首都の邯鄲は「邯鄲の夢」などの故事の舞台として知られており、現在でも邯鄲市という名前で存在している。
(photo by pixabay)
2.まばたきせざることを学ぶ
飛衛は入門を希望した紀昌に、まずは「まばたきしないこと」を学ぶように命じた。
紀昌は家に帰り、妻が使っている機織(はたお)り機の下に潜り込んだ。目の前で機織り機が動くのを、じっと瞬きせずに見続ける練習をすることにしたのだ。妻は驚いて嫌がったが、紀昌は叱りつけて無理に機織りを続けさせた。
この訓練を二年続けると、紀昌はまぶたを錐(きり)で突かれても、目に火の粉が入っても瞬きすることが無くなった。まぶたを動かす筋肉の使い方さえも忘れ、寝ているときでも目は開いたままで、ついにまつ毛の間に小さな蜘蛛が巣を張るようになった。
機織りでは、上下に稼働する2本のロッドで並べられた経糸(たていと)を分け、その間に杼(ひ)(シャトル)を通過させて横糸を通す工程を繰り返して布を織る。床に座って使うタイプの機織り機なら、下に潜り込むと、目の前でロッドが上下し、杼が左右することになる。
3.視ることを学ぶ
自信を得た紀昌がこのことを飛衛に告げると、次は「視ること」に習熟するように命じた。単に見るだけでなく、小さい物が大きく見えるほどに目を鍛え上げるのだ。
家に戻った紀昌は、肌着から虱(しらみ)を一匹探し出した。それを髪の毛で結んで窓辺に吊るし、一日中じっと見つめ続けた。十日もすると、アリよりも小さいはずの虱が、蚕(かいこ)ほどの大きさになっているように見えた。
虱を取り換えつつ、それを三年間続けたとき、紀昌の目には物が巨大に見えるようになっていた。人は高い塔のようになり、馬は山のように、豚は丘の如く、雉(きじ)は城の如く、非常に細かいところまで見えるようになっていた。
(photo by pixabay)
4.弓の奥義秘伝を学ぶ
飛衛は紀昌の出来栄えを誉め、直ちに弓の奥義秘伝を余すところなく教えた。
目の鍛錬に五年もかけただけあり、紀昌の弓の腕前はたちまちのうちに上達した。十日後には飛衛と同じように、百歩離れた場所から柳の葉を百発百中で射貫けるようになっていた。
二十日後には、強い弓を引いたままにしても、腕は震えもしなくなっていた。一月後には、百本の矢を次々と射たところ、矢は前の矢の矢筈(やはず)(矢の後端部の、弓の弦につがえる部分)に突き刺さり、百本すべてが一繋がりになった。これには飛衛も思わず声を上げて称賛した。
二か月後、妻と喧嘩をした紀昌は、脅しで妻の目の前を狙って矢を射た。矢は妻のまつ毛を三本だけ切り飛ばして飛んで行ったが、妻は眼前を矢が飛んで行ったのにも気づかず、紀昌を罵りつづけていた。
5.師弟の死闘
もはや師から学ぶものがない域にまで到達した紀昌の胸に、良からぬ考えが浮かんだ。今現在の彼にとって、敵となりうるのは師匠の飛衛だけである。自分が天下一の弓の名人となるには、飛衛の存在は邪魔なのだ。
紀昌が機会をうかがっていると、たまたま荒野で一人歩いている飛衛と出会った。とっさに紀昌は弓を手にしたが、飛衛もまたその気配を察して弓を取った。
互いが射た矢は、ことごとく両者の間で衝突して地に落ちた。飛衛の矢が尽きた時、紀昌は一本だけ残っていた矢を放ったが、飛衛は手近にあった野荊(のいばら)の枝を折り取って矢を叩き落した。
6.決着の価値観
自分の野望が失敗したことを悟ると、紀昌の心に後悔の心が生じた。飛衛は危機を逃れたことへの安堵と、自分の技への満足が合わさり、紀昌への憎しみを忘れた。二人は互いに駆け寄り、互いを抱きしめて、“美しい”師弟愛の涙を流したのだった。
現代日本の価値観から見ると、この二人の心の動きはなんとも理解しがたいところがある。作品を執筆した時(1942年)でもそれは同じで、中島は文中に括弧書きで「こうしたことを今日の道義観をもって見るのはあたらない」としている。
例えば、美食家として知られた斉の桓公(紀元前685~643年)が今まで味わったことがない珍味を求めた時に、料理長である易牙は自分の子供を蒸し焼き料理にして出した。この易牙は桓公に重用された寵臣「三貫」の一人として扱われている。
また、秦の始皇帝は16歳の時に父を失ったが、その日の晩に父の妾を三度も襲って辱めた。
春愁時代前後の中国は世が乱れて道徳観も大きく歪んでおり、万事が万事、このような有様であったとされている。
7.次なる目標
そうして一旦は師弟による殺し合いの危機は去ったものの、飛衛からしてみれば紀昌がまた同じことを考えないとも限らない。そこで、紀昌の興味を自分から別の方にそらすことにした。
飛衛は、もしこれより先の道を究めたいと思うなら、西にある霍山(かくざん)の頂上に登り、甘蠅(かんよう)老師という人物に会うべきだと紀昌に言った。甘蠅老師は弓の道の大家であり、彼の技に比べると自分たちの弓術などは子供のお遊びに過ぎない。
その言葉を受け、紀昌はさっそく西へと旅立った。仮に飛衛の言葉が本当なら、紀昌の天下一の名人への野望はまだまだ遠いことになる。己の得た技が本当に子供のお遊びなのかどうなのかを、甘蠅老師なる人物の前で試してみたいという思いもある。
一月も険しい山を登り、紀昌はようやく霍山の頂上にたどり着いた。
霍山は現在の安徽(あんき)省西部の六安市霍山県にある山(山脈)で、北東から南西に向けて走っている。北東の端は大別山脈に接しており、山地が逆Lの字に曲がって延びる形となっている。主峰の白馬尖は霍山県南部にあり、標高は1774m。
ちなみに安徽省はお茶の産地として有名で、ここで作られるキームン(祁門紅茶)は世界三大紅茶の一つとして数えられる。
8.甘蠅老師
出迎えたのは、百歳を超えていそうなよぼよぼのじいさんだった。羊のように柔和(にゅうわ)な目をして、腰はひどく曲がり、長いひげが地面に付きそうになっている。
紀昌はさっそく弓を手にして、高い空を飛ぶ渡り鳥の群れに向かって矢を放ち、一本の矢で五羽の鳥を射落とした。
老師はそれを見て、一通りは出来ると評しつつ、先ほどの技術は「射之射」であり「不射之射」を知らないと言った。
ムッとする紀昌を連れ、老師は断崖絶壁の縁までやって来た。目眩(めまい)のするような高さの崖から半ば突き出た石があり、老師はこの上で先ほどの技を見せるように紀昌に言う。いまさら引っ込みがつかない紀昌は石の上に乗るが、凄まじい高さに突き出た不安定な石の上で、今にも足元が動きそうである。さすがの紀昌も震えが止まらず冷や汗が流れ、やがて腰が抜けて立つことさえも出来なくなった。
甘蠅は昔から他の文献にも弓の達人として登場している。山本序周が編纂した「絵本故事談」第一巻の「甘蠅」においては、飛衛が弟子入りしたとある。
それによると、飛衛は秘伝を授けられたが離反し、甘蠅のもとを去ろうとした。甘蠅がそれを追ったが、川を隔てて弓を射あうこととなった。紀昌と飛衛の戦いのように矢同士がぶつかって決着がつかず、最終的に飛衛の所に1本が残った。
どこを射ってほしいという飛衛に、甘蠅は口を大きく開いて喉を指した。飛衛はそこめがけて矢を放ったが、甘蠅は矢を噛み止め、それを使って飛衛を射殺してしまったという。
飛衛は名人伝でもこの後に登場するために死んだわけではないのだが、飛衛が偶然あった物を拾って叩き落したのに比べると、甘蠅は何の道具も使わずに矢を噛み止め、それを使って反撃したのだから、甘蠅の方が明らかに上であると言える。
(photo by pixabay)
9.不射之射
老師は紀昌に手を差し伸べて連れ戻し、自分が石の上に立った。これから射という物がいかなるものであるかをお見せしようと言うが、手には弓を持っていない。
ちょうど頭上には鳶(とび)が一羽、ゴマ粒ほどに見えるぐらいの高さを、輪を描いて舞っていた。老師は何も持たないまま弓を構える姿勢を取って、鳶を狙い射る様子を見せた。すると、鳶はあたかも本当に矢で射られたかのように、真っ逆さまに落ちてきた。
紀昌は慄(おのの)き、それから九年の間、老師の下にとどまった。
この間、紀昌がいかなる修行を積んだのか、知る者は誰もいない。
10.至射は射ることなし
九年後、山から下りて来た紀昌の顔つきは一変していた。精悍(せいかん)な顔つきは、人形、あるいは愚か者のような、腑抜(ふぬ)けた無表情になっていた。紀昌の様子を見た飛衛は、その顔つきを見て、これでこそ天下の名人、私の及ぶところではないと感嘆して叫んだ。
邯鄲の都は天下の名人の技が披露されることを期待したが、なぜか紀昌は技を見せようとしない。それどころか弓を手にすることもなかった。前に持っていた弓も捨ててしまったようである。
訳を尋ねられた紀昌は物憂げに、「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」と答えた。至高の行為は行われることなく、至高の言葉は語られることはなく、至高の射術は射ることを行わない、という意味であろう。
人々はこれが不射之射であると理解し、紀昌が弓に触れなければ触れないほど、彼の無敵の評判はますます高まっていった。
11.形のないうわさ
紀昌の弓の腕については、いろいろなうわさが飛び交った。夜に誰が出すともしれない弓の蔓の音が鳴る、紀昌の中にいる弓の神が夜ごとに抜け出して妖魔を祓(はら)っている、雲に乗った紀昌が古の名人と腕比べをしていた、盗人が紀昌の放った殺気に打たれて転落したなど、神懸った話までが出ている。
そのせいで、悪人は彼の家の近くを通らず、渡り鳥は家の上空を飛ばなくなった。
そうした噂に包まれつつ、紀昌は老いていった。年を取るごとに表情は更に失われ、言葉を発することもほとんどなくなり。息をしているのかどうかさえ分からなくなった。
紀昌は自分の状態を「自他・有無の境界さえあいまいになり、自分の顔の部品の区別さえつかなくなった」と評した。
山から下りてきて四十年後、紀昌は静かに世を去った。この四十年の間、紀昌は弓術について口にすることはなく、当然ながら弓矢を手にすることさえなかった。
12.弓を忘れた名人
紀昌の老後における記録は何も残っていない。ただ、奇妙な話が一つだけある。
それによれば、死ぬ一、二年ほど前、紀昌が知人の家を訪ねた際に、ある一つの道具を見たという。紀昌はその道具に見覚えがあったのだが、どうしても名前が思い出せず、使い道も解らない。
知人に道具の名前と用途について尋ねたところ、知人は紀昌が冗談を言っているのではないかと思って笑っていた。だが、やがて紀昌が本気で聞いているだと分かると、恐怖に近い驚きを見せた。
その道具の名前は「弓」であった。
古今無双の弓の達人であるはずの紀昌は、弓を忘れていた。使い方はおろか、その名前さえも。その後しばらくの間、邯鄲の都では画家は絵筆を隠し、演奏者は瑟の弦を切り、職人は道具を手にするのを恥じたということである。
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13.まとめ
名人伝においてはいろいろと読者に明らかにされていない部分がある。紀昌は甘蠅老師の所で何を修行したのか? なぜ紀昌は腑抜けたような風体になったのか? なぜ紀昌は弓を忘れたのか?
中でも最も重要な点は「紀昌は名人か否か」というところだろう。弓を手に取らず、弓の名前さえも忘れてしまった紀昌は、邯鄲の人々がほめたたえたように真なる名人だったのだろうか?
名人であるという説の場合、弓の名すらも忘れてしまった紀昌は「射」そのものになったのであり、道を文字通り体現した大名人であったとする解釈がある。執心を捨て、道を行うことを超えて、完全に一体化したという見方である。
その一方で名人ではなかったとする説も存在する。為す無くとは自分から「為すのでは無く」自然に任せて従うことであり、何もしないのとは違うという考えで、紀昌は為す無くを体現していないという見方である。
また別の解釈では、作者の中島が描きたかったのは名人の姿ではなく、飛衛の言葉を妄信して紀昌を祭り上げ、名人という偶像をつくってしまった人々の滑稽さであるともされている。現代でも、テレビや雑誌で紹介された評判を鵜呑みにして、自分で考えずにもてはやすというのはよく見られる。
名人伝は中島敦の作品の中でも珍しく、寓話的で解釈を読み手に任せるスタイルになっている。どう読み解くかは読者次第なので、自分なりの見方を作ってみると面白いだろう。
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