中島敦 弟子のあらすじ│孔子と、最も長く付き従った弟子たちの逸話
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最終更新日:2023/08/30
文学(Literature), 本(Book)
孔子(紀元前552年~紀元前479年)は、春秋時代の中国を生きた思想家、哲学者であり、儒家の始祖である。
その聡明さと人柄から、3000人ほども弟子がいたとされ、中でも、孔門十哲と呼ばれる特に優れた弟子たちとのやりとりは、後世に伝えられている。
中島敦の「弟子」は、孔子の宰相としての任期期間や、その後の放浪生活などでの、子路を中心とした孔門十哲とのやりとり、エピソードなどをまとめたものである。
第一章
1.孔子との出会い
春秋時代の後期。魯(ろ)の国に子路(しろ)という遊侠の徒がいた。
武勇を好み、質実剛健な人物である。
子路は、何やら孔子という学者が賢者として名高いということを耳にし、似非賢者を辱めてやろうと雄鶏と雌豚を手に孔子の所へ向かった。
鶏と豚をけしかけ、そのやかましさで講義を乱してやろうと思ったのだ。
目をいからせ、動物のやかましい声と共に家に入って来た子路を、孔子は机によりかかったまま穏やかに迎え、問答を始めた。
孔子はすぐに子路の幼稚な自負を見抜いたが、同時に愛すべき素直さが彼の中にあることにも気づいた。
学問など無益だと怒鳴るように言う子路に、孔子は学問の必要性を説き始めた。
2.学の重要性
「君主も諫める臣下が無ければ正しき道を見失い、官位にある立派な男子も教えを与える友がいなければ、人の言うことを聞かなくなる。
誰もが持つ勝手気ままで節度がない性分を矯正するためにこそ、学問が必要なのだ。
そうやって制御して磨くことで、才能は初めて役に立つことになる」
孔子の説教はその内容ばかりでなく、声音や話し方、態度に至るまで、聞く者が納得せずにはいられないものがあった。
次第に子路から反抗の色が消え、素直に聞き入れる態度に変わってきた。
それでも子路は反抗し、南山にある竹は加工せずとも犀(さい)の皮を貫くことができると聞くが、同様に天賦の際がある物は学問で矯正などしなくても優れていると言った。
これに対して孔子は、それほど優れた南山の竹で弓矢を作って矢尻を付ければ、犀の皮を貫く程度にとどまらない力を発揮するであろうに、と説いた。
天賦の才がある者が学問を収めれば、無学のままよりもさらに有用になるのだ。
子路は答えに窮し、降参して孔子の教えを受けるにした。
実際は家に入ってきて孔子にあったときから、彼が自分よりもはるかに器の大きな存在と気づき、圧倒されていたのだ。
その日より、子路は孔子の弟子となった。
第二章
3.孔子という人間
子路は孔子のような人間を見たことが無かった。
怪力や超知覚のような怪物めいた力があるわけはない。ただ、知識・感情・意識・肉体など、人間として普通の能力が、非常に高い次元で完成されているのだ。しかも、一つ一つの能力の高さが際立って見えないほど、全体が均一に発達している。
広い度量と自由さがあり、堅苦しい学者の雰囲気もない。しかも、子路の自慢であるはずの武芸や腕力も、孔子の方が上だった。昔は荒れている経験があったのではないかと思われるほどに高い人間観察眼を持ち、崇高な倫理的な面でも、世俗的な面でも大丈夫(立派な男子の意味)な人物である。
子路にとって、孔子とは共に行動することで何か利益があるというのではなく、ただ居るだけで十分な人間だった。かつて長剣を肌身離さず持っていたように、今は孔子が子路にとって離れがたい精神的支柱となっていた。
子路は孔子の弟子の中でも、最も長く付き従った者となった。だが、それは仕官の道を求めたり、自分の才徳を磨こうとしたりすることが目的でなく、ただ純粋な敬愛・崇尊の感情から来たものだった。
孔子は身長が9尺6寸あったとされる。春愁時代の1尺は現代の尺度で22.5cmなので、孔子の身長は216cmと、相当に長身であったことになる。また、父はたびたび武勲を立てた軍人であったとされる。
父が優秀な軍人で、相当に恵まれた体格を持っていたとあれば、武芸・膂力(りょりょく)が共に子路よりも優れていても何ら不思議な事ではないだろう。
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4.扱いづらい弟子
一方、孔子は孔子で、子路の扱いづらさに手を焼いていた。
子路はとにかく形式というものを軽蔑する男だった。
「礼の本質は供え物にあるのではなく、音楽の本質は楽器にあるのではない」というような話は素直に聞くのだが、こまごまとした礼の定めの話になると、たちまち興味を失った。
形式を本能的に忌避する子路に教えを授けるのは孔子にとって難事であったが、子路にとっても習うことが難事であった。
孔子の人間的厚みは、細かい礼儀や作法の積み重ねによって出来上がる物であるということが、子路には理解できないのだ。
孔子の人間性に惹かれながらも、その人間性を作る方法を忌避・軽蔑してしまうのである。
とはいう物の、孔子は子路のことを愚劣であるとは考えていなかった。
子路は損得を考えず、ひたすらに正直だった。この時代の魯においてはそんな性分を持つ者は珍しく、孔子以外の誰もが不可解な愚かしさと捉え、徳として見ることは無かった。
そんな子路も、何とか師の言葉に従い、己を抑えて形式を修めようとした。まずは親への態度を改めて、親孝行をしてみた。その結果、それまでどうしようもなかった我儘息子が、孔子の弟子になったとたん孝行息子になったと親戚中の評判になった。
だが、子路本人にしてみれば自分が嘘ばかりついているような気がしていた。
第三章
5.師の悪口は許さず
ある日、子路が道を歩いていると、かつての遊侠の徒であったころの友人たちと会った。儒家の服装をからかわれても子路は無視していたが、孔子のことを侮辱されると、たちまち相手を殴り飛ばした。
数日後、孔子が口ばかりで現実の政治には役に立たないと噂する場に行き会った子路は、まくしたてる弁者の前に進み出た。手こそ出さなかったものの、子路が相当に恐ろしい顔をしていたために、弁者は色を失って逃げ去った。
その後もしばらく似たようなことがあり、子路の姿を見ると人々は孔子をそしる声を潜めるようになった。そのたびに師に叱られたが、子路はどうしても湧き上がる憤怒を抑えられない。
子路は孔子がほとんど怒りを覚えていないことを、悔しく感じていた。
一年ほど経ったころ、子路が門下に入ってから、誰も自分の悪口をしなくなったと、孔子は苦笑した。
第四章
6.荒廃の音色
ある時、子路が瑟(しつ)(大きな琴のような弦楽器)を演奏していた。それを耳にした孔子は、奏者の荒々しく道理に反する気質を映し出していると評した。
孔子の言葉を聞いた子路は、自分の音楽の才の乏しさは、耳や手の不器用さではなく、精神の深部のありように原因があると気付いて恐れた。部屋にこもって、食事もとらずに、やせ細るほどに深く考え込んだ。
数日後に思いを得たと信じた子路は、再び瑟を演奏した。
今度は孔子も何も言わなかったために子路は喜んだが、実際は荒々しい殺伐とした音のままだった。孔子が何も言わなかったのは、骨と皮になるまで考え込んだ弟子を憐れんだからに過ぎなかったのだ。
第五章
7.孔子への依存
孔子の弟子の中で、子路ほど多く叱られた者はいない。へりくだらない性分であるために、挑発的な事や批判をずけずけと言う。
しかし、同時に精神面では完全に孔子に寄りかかっており、師の前では複雑な思索や判断は任せっきりにしている所がある。ある意味では、親が子に依存しているような物で、子路自身もそれに気づいて苦笑することがあった。
8.子路の「規範」
そんな子路でも、どうしても譲れない一線のようなものが胸中にあった。
任侠や信義というと堅苦しすぎるが、とにかく自分としての正義のような物である。それを感じられることが善きことであり、感じないことが悪というわけだ。
そして、その境界は極めてはっきりしている。
子路にとっての正義と、孔子のいう仁との間にはかなりの開きがあるため、子路は師の教えの中から自分の思いを補強する部分だけを取り入れていたのだ。
9.特殊な弟子
初めの内、孔子は弟子の性分を矯正しようとしていたが、やがてあきらめてしまった。生半可な方法で制御できない子路の性質は、同時に大いに役に立つ部分でもあり、大よその方向性さえ与えてやれば良いのであると考えていたのだ。
子路という特殊な人間にとっては良い事でも、常人には害になることも多い。それゆえ、孔子が残した小言には、一番弟子である子路個人に向けられたものが数多く残っている。
第六章
10.乱れる世の中
孔子がいた春愁時代は戦国時代であり、十以上の大国が争いを繰り広げ、世の中は大いに乱れていた。
周の王室は二つに分かれて争っている。斉の王は臣下の妻と密通して、彼女の夫に殺された。楚では病に伏した王を親族が絞殺し、呉では罪人が王を襲い、晋では臣下同士が妻を交換し合う。
孔子の出身地である魯の王・昭公は上卿(上級の公家)季平子を討とうとしたが、返り討ちに遭って国を追われた。帰国しようとしても、帰国後の自らの運命を案じた臣下が引き留めるために帰れず、亡命から七年後に晋の地で客死した。
11.孔子の登用
昭公が亡命して以降、魯では季氏の宰相であった陽虎が反乱を起こして実権を握っていた。しかし、陽虎が自らの策に溺れて失脚すると風向きが変わった。昭公の後を継いだ弟の定公が、孔子を宰(大臣)として取りたてたのだ。
このとき、孔子は五十二歳であった。
まともな官吏や政治家が皆無の時世であったが、孔子の公正な方針と綿密な計画は短期間で卓越した実績を上げて都を安定させた。驚いた定公が魯全体を治めることができるかと尋ねると、孔子はすました顔で天下も治めることができると答えた。
定公はすぐに孔子を司空(土木事業の行政担当官)の地位に付け、やがて宰相と大司寇(刑罰についての国務長官)を兼任させるようになった。
孔子は28歳の時に魯に仕官しており(牧場の管理者であった)、昭公と共に斉に亡命している。その後は、斉で召し抱える話も出ていたが、宰相の反対によってかなわなかった。また。
また、陽虎が孔子を仕官させたいと思い、孔子もそれを臨んでいたが、実現しなかったということもあった。
ちなみに、陽虎は失脚して追放され、各地を転々とした後、孔子が宰として魯で登用されたのと同じ年(紀元前501年)に晋に召し抱えられた。
12.子路の出世
孔子の推薦により、子路は季氏の宰となった。現代でいうならば、内閣官房長官に相当する地位である。
孔子の政策は公室の権力強化、すなわち中央集権化である。魯においては、公室の分家である季、叔、孟の三氏、いわゆる三桓氏が公室よりも強い勢力を持っていた。孔子はそれぞれの私城の中でも特に大きな、郈(こう)、費、成を壊すことにし、子路がこれの実行に当たった。
子路とって、自分の仕事の結果がすぐに、しかも大規模に現れることはこの上なく楽しかった。特に、既存の政治家が作った無駄で害悪のある組織や習慣を壊していくことには、一種の生きがいを感じさせた。
また、師が長年の抱負を実行に移し、忙し気にしている姿を見るのもうれしく思っていた。
孔子の方も、子路が実行力のある政治家として活躍している姿は、頼もしい物として映った。
13.孔子の軍事的能力
費の城を破壊した時に、公山不 なる者が反乱を起こして魯の都を襲い、定公が避難した武子台にまで迫ったことがあった。しかし、孔子の判断と指揮によってかろうじて事なきを得た。
孔子は政治的手腕、個人の腕力や武芸のみならず、軍事的指揮能力の優れているのだ。このときは、子路もかつて使っていた長剣を手に、前線に立って戦った。
子路にとっては、書物を読んだり古い礼儀を習ったりするよりも、こうした荒っぽい現場と関わって生きる方が性に合っていたようだ。
魯において公室以上の力を持っていた三桓氏は大臣として首都におり、それぞれの城に駐留しているのは三桓氏の臣下であった。これらの家臣は下剋上を起こす傾向が強かったので、三桓氏も私城の解体には同意していたとされる。
しかしいざ実行の段階になると、費の城は壊せたが、郈では家臣の抵抗にあって手こずった。成も家臣が同意せずに抵抗をつづけ、さらに城の主である猛氏も反対に回ったので、子路の破壊は失敗している。
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14.夾谷(きょうこく)の会
魯は周辺の斉、晋、楚に比べると小国であり、これらの国に翻弄される存在だった。ある時、魯は斉との戦に敗れて、講和をしなくてはいけなくなった。
定公が斉の景公との会談した際、同席した孔子が、失礼な態度を見せた景公とその臣下、有力な公家を、痛烈に叱り飛ばす出来事があった。敗戦国の役人の一喝に、戦勝国であったはずの斉の者達が残らず震え上がったとの記録が残っている。
この会見は紀元前500年の春の出来事で、「夾谷の会」と呼ばれている。このとき、斉が舞楽のために用意していた一団は、小道具と称して太刀や矛を持っていた。会議で魯側を威圧、あるいは襲撃するための方便であると見抜いた孔子は、舞楽団の手足を切らせて、余計なことができないようにしたと言われている。
この功績により、孔子は最高裁判官に相当する大司寇に就任するとともに、外交官にも任ぜられた。
15.魯の凋落
この時以来、斉は孔子の存在、あるいは孔子の姿勢の下で強大になりつつある魯の国力に警戒心を抱き始めた。
そこで斉は、歌と踊りに長けた美女の一団を差し向けた。彼女らによって定公を篭絡し、孔子との信頼関係にひびを入れようと図ったのである。
古臭く幼稚な策であったが、魯の国内にも反孔子派の者達がいたことも相まって、かなり早く効果が発揮された。定公はすっかり篭絡されて政の場に出なくなり、有力な公家である季桓子及びその下の大臣たちも同じようになってしまった。
16.放浪の始まり
このありさまに子路は憤慨し、真っ先に職を辞した。孔子はまだ役職に残って手を尽くそうとしたが、子路としては、乱れ切った宮廷の中で苦戦する師を見るのが苦しくて仕方がなかった。
とうとう孔子も諦めて役職から辞し、魯の国から去った。以前から師が堕落した政の場から出ることを臨んでいた子路は喜び、後についていった。
子路が宰になってから1年後、紀元前497年のことである。ここから、長きにわたる孔子と弟子の諸国放浪の旅が始まった。
作中においては、孔子は職を辞したのは国政に失望したことが理由とされているが、孔子の中央集権化によって軍事力を奪われそうになった三桓氏が反撃に出たことによって、亡命せざるを得なくなったためという説もある。
いずれにしても、急激な改革で古い因習を破壊していれば、おのずから敵は多くなる。そこに、外国の工作によって政治の中枢が機能しなくなれば、改革の中心人物である孔子は居場所がなくなってしまうのは必然であっただろう。
魯から出たのは、失望と亡命の両方の意味が含まれているのかもしれない。
第七章
17.子路の疑問
子路は子供のころからある疑問を抱き続けてきた。
それは、「なぜ邪悪が栄えて正義が虐げられるのか」ということだった。
悪が栄えたためしなしとはいうものの、それは人間がいずれ破滅に至る、盛者必衰の理が働いたに過ぎない。正義が究極的勝利を得たためしなど、遠い昔はいざ知らず、少なくとも今の世では聞いたこともない。
子路は憤慨して、天は何をしているのかとも考えるが、もしかすると自然が人と獣に分け隔てなく接するのと同様、しょせん人間が拵えた仮の境界である善悪のことなど、気にもしていないのかもしれないと思った。
18.報われるべき人
子路は善報について孔子に尋ねたが、得られるのは人間の幸福の真の在り方に関する説法ばかりだった。だが子路としては、幸福(自己満足・主観的価値)だけにとどまらず、善をなす者にははっきりとした善報(社会的評価、地位、世の平和)が来るのでなくては不満なのだ。
孔子についても同様だった。どうしてこのような能力も徳もこの上なく優れた人が、家庭にも恵まれず、一度活躍した国から関係によって追い出され、年老いてからの放浪の旅に身をやつしている。
善をなす者に善報があるならば、それを受けるべきは孔子において他はない。それなのに、孔子が受けたのは放浪の旅だった。
19.子路の決意
子路は決めた。
濁世のあらゆる侵害から孔子を守る盾となること。精神的に導かれて守られつつ、世俗的な煩わしさ、労役、汚辱を、全て自分の身に引き受ける。これが自分の務めだ。
自分は、学も才も後から来る弟子に劣るかもしれない。しかし、何かあれば真っ先に命をなげうって孔子を守るのは自分の役目であると、子路は深く信じていた。
子路と同じように、明確な己のルールを持ってそれにのみ従う人間は、古今東西・空想現実を問わず存在する。例えば、アメコミ「ウォッチメン」に出て来る、「ロールシャッハ」というヒーローは、白と黒が明確に分かれる己の絶対的ルールで世界を見ている(ロールシャッハの場合は、その規範に従うためならば他人のみならず、自分の命をも含む全てを犠牲にするような苛烈な物だが……)。
ただ、世界は濃淡がある灰色のような物であり、白か黒でしか判断できない人間は、グレーゾーンの存在を許すことはできず、常に怒りを抱え続けることになる。その心は平穏には程遠い。
孔子が幸福の真の在り方について教えようとしたのは、子路のあまりの硬直的、二元的な考え方が、心の安らぎを壊して不幸にしていることを伝えたかったのではないだろうか?
第八章
20.子路の目的
孔子の周遊は、もちろんどこかの国で登用され、自分たちの能力を発揮することを求めた物だった。もちろん弟子たちも同意見だった。
きれいな玉はひっそり仕舞われているよりも、価値が分かる買い手に買ってもらった方が幸せなのだ。
だが、子路だけは異なっていた。魯の国でやったように、役職を持っていろいろなことをするのは気分が良かったが、それはあくまで孔子の下であるという条件付きだった。それが無ければ、仕官しても自分の本領たる部分を害するものでしかない。
孔子の番犬として、ぼろを着て放浪の旅を続けても、子路は一向にかまわなかった。
21.孔子の弟子たち
孔子の弟子には様々な者達がいた。
てきぱきした実務家の冉有(ぜんゆう)、温厚で穏やかな閔子騫(びんしけん)、学問好きで作法や儀式に詳しい子夏(しか)、実利主義的でやや道徳を軽視しがちな宰予(宰我)、世の中の不条理に憤る気骨のある公良孺、愚直で背が低い子羔。
この中で、年齢・貫禄の面において一番はもちろん子路であり、彼が弟子頭といえる存在だった。
孔子には非常に数多くの弟子がおり、その数は3千人と言われた。その中、特に才能が優れた者が70名あまり(文献によって72~76人で、3、4人は違う人物である)いたとされる。
中でも、徳行、文学、政事、言語の4科にそれぞれ優れた弟子が10人おり、この10人は孔門十哲と呼ばれている。
徳行は顔淵(顔回)、閔子騫、冉伯牛、仲弓。言語は宰予(宰我)、子貢。政事は冉有、子路。文学は子游、子夏である。
子路が政事に秀でていたのは、魯の国で登用された時に証明した通りである。
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22.後世恐るべき男
この中で、子路は子貢(しこう)という青年に目をかけていた。
孔子は顔淵という弟子を高く評価していたが、子路の方は、顔淵は孔子のような生活・政治面での力強さに欠けていると考え、あまり好きではなかった。
子路からすると、顔淵の柔軟性の良さが分からなかったのだ。
これは現代でいうならば、体育会系の先輩が、先生から評価されている文化系の後輩の良さが今一つ理解できないようなものなのかもしれない。
子貢は少々軽薄な所があったものの、常に才気と活気に満ちており、子路に似たところがあったのだ。また、子貢は頭がよく切れ、その才覚には誰もが驚かされた。
子貢は子路よりも二十二も年下であり、軽薄でまだ人間ができていない所は、年齢から行って仕方がないところでもある。それでも、後生恐るべしとでもいうべき感じを、子路は子貢に対して抱いていた。
子貢は孔子の弟子の中でも特に多くの才を持っていたことで知られている。政治家として弁舌を振るい、魯を救い、呉を滅ぼし、越を覇者たらしめ、斉を弱体化させ、晋を守ったと言われている。
商才にも秀でていたので、孔子の弟子の中では最も裕福な実業家であったが、孔子は彼の才能の使い方にはあまりよい顔をしなかったという。しかし同時に、子貢の才能の高さを認めて深く愛したのも孔子であった。
23.子貢の疑問
ある時、子貢が朋輩に次のようなことを言った。
「師は口の巧さを嫌っているが、師自身も弁舌が巧みすぎる。例えば顔淵も口は巧くて人を引き付けるが、人を信用させるには至らない。それに対し、師の言葉は人に疑いを抱かせない重厚さを持ち、含蓄に富んだ比喩には誰も反論できない。
もちろん、師の言葉は九分九厘まで間違いなき真理であり、彼の行動は九分九厘が誰もが見習うべきものだ。
しかしそのうちの一分が、絶対的真理と一致しない、師の人間的・性格的要素の言い訳のために使われることもあるのではないだろうか?
師は間違いなく聖人と言われるに足るほど人間的に完全な人であるが、絶対的・盲目的に信用するのは良くないのだ。
顔淵は師とよく似通っているために、こんなことを考えることもないだろう。彼が師に気に入られているのも、単に馬が合うかどうかだけの問題なのかもしれない」
子路はそれを聞き、青二才の分際で師の批判などおこがましいと思い、子貢の言葉が顔淵への嫉妬から発せられたものであるとも気づいていた。だが同時に、馬鹿に仕切れないものがあるのも感じていた。
馬が合う・合わないというのは、確かに重要な要素だ。
師が説く礼節の重要性を子路が納得できないところ、顔淵の良さが今一つわからないところも、こうした相性の良し悪しが重要なのではないか。子路は自分が抱えていた物をズバリと言葉にして見せた子貢の才能に、少なからず舌を巻いた。
子貢は極めて優秀な政治家・実業家であったために、孔子を越えているという評価(孔子を貶めたい者が言った例もあるが)もあった。
だが、子貢本人は孔子の方がはるかな高みにいると考えており、「天が高いことが分かっていても、その高さを具体的に知ることができないように、先生が賢いことが分かっていても、どれほどまでに賢いのかは見当もつかない」と表現している。
24.怪力乱神を語らず
ある時、子貢が孔子に
「死者には意識があるのか、ないのか?」
という質問をした。
それに対して孔子は、
「もし意識があると定義したら、先祖思いの子孫は自分の生活を破綻させてでも死者をまつろうとする。ないと定義したら、親不孝な物ならば葬式を上げず墓も用意しないだろう」と答えた。
つまりは、仮にどうであっても、決めてしまうと良いことは無いのだという意味である。
現実主義・日常生活主義の孔子は、そんなどうでもよいことから弟子の関心をそらすためにそう答えたのだ。
子路はその質問とは別に、孔子の死生観が少し気になったので「死」について尋ねてみた。孔子の答えは
「生きるということがまだ分かっていないのに、死ぬことが分かるわけがない」
であった。
子路はすっかり感心したが、子貢は肩透かしを食らったようで不服そうであった。
時代が違うが、仏教の祖で多くの弟子を持っていた仏陀にも似たエピソードがある。
仏陀の弟子の一人が、師に
「世界は永遠なのか? 宇宙の果てはあるのか? 死後の世界は存在するのか?」
などの質問を投げかけ、これを教えてくれないようなら修行を辞めると言い出した。
これに対して仏陀は、
「例えば、毒矢で射られて医者に手当てを受けようとしているときに、医者の身分や住所や矢の材質を知らないうちは手当てを受けないと言っても、答えを得る前に死ぬだけだ」
「宇宙の果てや死後の世界があっても無くても、目の前の現実には生・死・欲・苦・欲などが存在しているのは変わらない。私が教えるのは、覚りによってそれらに囚われない心の平穏を得るための方法(つまり毒矢の手当て)であって、役に立たないことは話さない」
と言った。
後の世に言われるところの、「毒矢の教え」である。
孔子と子貢のやり取りもこれと全く同じで、子貢や子路が聞いたようなことは、今の現実を生きることには関係が無く、いちいち考えるのは無駄であると孔子は説いた。
儒教の「怪力乱神を語らず」というのは単純に迷信を否定しているのではなく、実生活において益が無いことを語らないという意味がある。
25.衛の醜聞
孔子が魯を出て衛に入った時、君主の霊公からお呼びがかかった。
この霊公、愚昧(ぐまい)ではないが意志が弱く、諫言(かんげん)よりも甘言(かんげん)に乗ってしまう性質の男だった。
特に夫人の南子のいうことなら何でも聞いてしまう。そのため、衛の国は実質的に南子が牛耳り、霊光に取り入ろうとする者は、まずは南子にお伺いを立てるのが常だった。
孔子が霊公に呼ばれた時、孔子は南子の所にあいさつに行かなかった。
南子はこれに大層へそを曲げ、孔子は仕方なく南子の所にも向かったが、南子としては霊公がこのぶっきらぼうな老人を賢者として崇めているのが気に食わない。
霊公が孔子に、共に馬車に乗って都を一巡しながら話をしようと持ち掛けたとき、南子は自分が夫の隣に座って孔子を乗せないようにした。さらに、孔子は別のみすぼらしい馬車を用意し、そちらに乗せて後をついてこさせたのだった。
子路としては、この淫奔(いんぽん)な醜聞がついて回る女などに、本物の賢者たる自分の師が辱められるなどとは、あってはならないことだった。民衆が南子に歓声をあげ、孔子に顰蹙(ひんしゅく)の声を向けるのを見た子路は、思わず南子に向かっていきそうになったが、他の弟子に止められた。彼らも目に涙を浮かべていた。
さすがの孔子も今回の件にはため息をつき、享楽と同じぐらいに徳を好む人が誰もいないことを嘆かずにはいられなかったという。
26.大きすぎる存在
各国を放浪していく中で、孔子を招いたり、あるいは召し抱えようとしたりした国はいくつもあり、弟子の何人かを実際に雇った国もあった。しかし、いずれも賢者としての孔子の名を尊んだものの、考案した政策を実行した国は無かった。
かつて葉の君主・子高という人物は竜を好み、日用品や部屋に竜の意匠を描かせたり彫らせたりしていたという。だが、本物の竜が自分の崇拝者に合おうとして姿を現したとき、子高はその姿を一目見るなり、色を失って逃げてしまった。
諸侯にとって、孔子は竜とおなじであった。その名声を尊んでも、実際に向き合うと手に余る。孔子一行には、諸侯の敬遠と御用学者の妬み、政治家による排斥が待ち受けていた。
それでも孔子と弟子は講義も切磋琢磨(せっさたくま)も怠らず、旅を続けた。
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27.隠遁による平穏と、挑戦による苦難
許から葉へと出る旅路で、子路は一行から遅れて歩いていた。
道中、一人の老人に出会った子路は家に招かれ、食事をふるまわれた。老人は二人の子供と暮らしており、明らかに貧しいにもかかわらず、和やかに満ち足りた雰囲気と共に、皆どこか知的な様子を見せている。
子路を送り出す際、老人は
「今の世に、かつての周が行っていた古い礼儀作法を広げようというのは、陸を船に乗っていくような、不可能に近いほど難しい物である。
人生は楽しみを全うして“志を得た”といえるのであり、志を得るとは高い地位を手に入れることではない」
と評した。
明らかに、子路を孔子の弟子と知っての言葉だった。
子路は世を捨てて穏やかに生きるのも、一つの美しい生き方には違いないと思い、幾分かの羨望(せんぼう)を感じないでもなかったが、反論もあった。
人の人たるゆえんは楽しみを全うするのではなく、自分一人で清く生きようとして世の中の不正を見逃すのは人としての道に背く。今の世の中は倫理が損なわれ、それを説くのは危険であるのは承知しているが、それがゆえに必要性があるのではないか?
28.才能か努力か
宋から陳に出る船の上で、子貢と宰予が孔子の持つ能力が、先天の物か後天の物かを議論していた。
子貢は孔子の才は先天的素質の非凡さによると考えていた。それに対し、宰予は自己完成の努力によるものだと考えていた。
宰予の見たところでは、孔子と弟子との能力の差は、才の「質」ではなく「量」の違いによる。
だが子貢は、量の違いがあまりに大きいようならば、結局は質の差と同じになるとみていた。仮に量の差によるとしても、そこに至るまで自己完成のための努力を続けられること自体が、先天的な非凡さの表れではないだろうか?
子路はこの話を、口先だけの役立たない議論と感じていた。何か実際に事があった時、最も孔子の役に立つことはできるのは自分であるという自負があったからだ。
29.仁の無い死
そんな子路でも、孔子に賛同しかねる部分は相変わらず残っていた。
例えば、百年ほど前に陳の霊公が家臣の妻と通じ、女の肌着を身に着けたまま朝廷に来て、見せびらかしたことがあったという。その際、泄治(せつや)という臣下が諫めたところ、公の怒りを買って殺されてしまった。
この話について、孔子は泄治の行動に“仁(普遍的な人間愛)”があったとは言い難いと評していた。
似たような話に、紂王(殷の最期の王)の臣下・比干が諫言によって誅殺されたというものがある。だが、比干が紂王の血縁であるうえに少師(国防大臣に相当)であったため、比干の師による損失の大きさから、誅殺後に紂王が悔い改める可能性もあった。
これに対し、泄治は霊公の親類でもなく、地位も単なる大夫(地方局の長官)にすぎない。首を飛ばしたところで霊公が後悔するはずもなかった。
孔子から見れば、自分の死が発揮する影響力が全くないことを理解せず、命を無駄にしただけであり、仁など見出せない話だった。
紂王は紀元前1100年ごろの人物で、孔子の時代から500年ほど前の時代に生きていた。
重税を課し、愛妾の妲己(だっき)に溺れて途方もない贅沢を行い、面白半分に残虐な方法で人を処刑するなどの暴政を行った。酒池肉林という言葉は紂王の贅沢が語源である。
比干は贅沢を辞めるように諫言したが、紂王は「賢人の聖人の心臓には七つの穴が開いているというので確かめてやる」と言い、比干の心臓をえぐって殺したという。
だが、紂王の悪事や暴政のエピソードについては信憑性が薄い物が多く、殷を滅ぼした周が自らの王朝の正当性を高めるために創作したという見方もある。
ちなみに、子路も論語の中で「殷の紂王の悪行は世間で言われているほどではなかっただろう」と評している。
30.命の捨て時、捨て所
子路としては、自分の身を顧みずに一国の乱れを正そうとした泄治の行動には、結果はどうであれ立派なものがあるのではないかと思わざるを得なかった。
しかし孔子は、国に大事があれば自分の命をささげて国を救った古の名臣は多くいたが、彼らも国に命をささげるだけの価値がないと考えたときは、身を引いて国を捨てたことを説いた。
子路は命をささげるという行為そのものの中にある見事さだけに目を奪われ、それ以上の意義は理解が出来ていないようだ。
命をささげる時と捧げない時を見極める姿勢は、子路としては保身にしか思えなかった。無駄と知りつつ死を選ぶ姿勢は国民の気風に影響を与えるのではないか?
それに対して孔子は、保身ばかりが大事とは言わないが、道のために命を捨てるとしても捨て時・捨て所という物がある。それを見極めるのは保身のためばかりでない。
そういわれても、やはり子路は納得できない。理解した封の他の弟子たちには、彼らに保身の概念が染みついているからと思って腹を立てていた。
孔子の方は、子路は尋常ならざる死に方をするであろうことを予見していた。
孔子は、命をささげる行為の良し悪しを測るのは、行為そのものの持つヒロイズムではなく、捧げた結果として実現した物事の価値であると判断している。
子路は死によって国民の気風に影響を与えるかもしれないと考えたが、孔子の言葉通り木っ端役人が余計なことを言って誅殺されたと捉えられれば、民衆も気にもとめない。
精神論よりも実利、経過よりも結果を重視するのは、リアリストの孔子らしい考え方といえる。
31.生涯をかけた使命
放浪の旅は続き、もはや孔子の唱える政策を実行する国が出て来ることは望めなかった。
子路も世の混迷・諸侯の無能・孔子の不遇には長く苛立ち、怒り、焦りを抱いていたが、やがてそれを感じなくなった。あきらめたのではなく、孔子や自分たちの天命というべきものが、漠然とだが分かりかけてきたのだ。
それは一国に一時召し上げられることによって政策を実現するのではなく、広い範囲・時代に残されるべき規範を示すという物だ。
いかなる場合にも絶望せず、現実から目を背けず、自分が出来る限りの最善を尽くす孔子の姿勢は、後の世の人にも見られていることを意識してのことだった。超時代的といえる孔子一派の使命だったが、弟子の中では特に聡(さと)い子貢でも、その賢さが邪魔となってまだ理解できていない所があるようだった。
だが、実直で師への愛情がことさらに深い子路は、使命の意味をつかみつつあった。
放浪の旅の中、子路もすでに五十歳を迎えていた。丸くなったとはいいがたいが、それでも堂々たる一家の風格を備えるようになっていた。
子路が感じたように、孔子の生きざまは儒教として後世に残され、多くの人にとっての指針となった。
人から人へと、変化しながらも歴史を通して伝わっていく「文化の情報」を、遺伝子の様な物と捉える「ミーム」という考え方がある。ミームは習慣、思想、技能、物語、宗教といった情報で、言葉、書物・壁画(文字や絵)、教育、マスメディアなどを通じて伝わり、広がっていく。
孔子がやろうとしたのは、周の時代の法や習慣を自らが再編集した「道」というミームとして残すことであった。
32.再びの仕官
四度目に衛を訪れたとき、若い侯や正卿孔叔圉(こうしゅくぎょ)からの要請を受け、孔子は子路を推挙して仕官させた。
この後、孔子は魯に迎えられて十余年ぶりに帰国したが、子路はついていかずに衛にとどまった。ある意味では、子路も独り立ちしつつあったのかもしれない。
しかし、子路が仕官する十年以上前から、衛は霊公の妻・南子の乱行をはじめとし、かなりの混乱を抱えていた。霊公の子である蒯聵(かいかい)が、義母である南子を殺そうとして失敗し、晋に亡命した。
その間に霊公が亡くなり、やむなく蒯聵の子である輒が、幼くして出公として後を継いだ。その一方で、蒯聵は晋の力を借りて衛の西部に潜伏しつつ、王座獲得の機会を狙っている。
33.子路の仕事
そんな混沌とした状況で、子路は衛の名家である孔家のために、宰として蒲(はん)の土地を統治する仕事を与えられた。
元々この蒲の地は、南子を排斥しようとして失敗し、魯に亡命した公叔戍(こうしゅくじゅ)という者の領地であった。元から気性の荒い者が多く、かつて孔子ら一行も、この土地で暴徒に襲われたことがあった。
公叔戍亡命後に領主となった孔家に対して、素直に従うはずもない。
34.孔子の指南
藩の地へ向かう前に、子路は孔子を尋ねて、教えを請うた。
孔子は
「恭(きょう)にして敬あらばもって勇を懾(おそ)れしむべく、寛(かん)にして正しからばもって強を懐くべく、温にして断ならばもって姦を抑(おさ)うべし」
との言葉を子路に授けた。
・(相手への敬意を示すのは人間のとる態度だから)うやうやしく敬意をもって接すれば、勇敢な者をも恐れさせるだろう。
・(あまり厳しい態度では相手が親しみを持てないので)ゆったりとして正しい姿勢を見せれば、強い者にも親しみを抱かせるだろう。
・(人間味や優しさがあるのは善の道に通じるので、温かみを持ちつつきっぱりと判断すれば、悪事を抑え込むことができるだろう」
という意味である。
35.天下の快男児
教えを胸に藩の地に赴任した子路は、まずは土地の有力者、反抗分子等を呼び、腹を割って彼らと語り合った。懐柔しようというのではなく、統治するにあたってとにかく自分の思うところを表明するのが目的であった。
子路の気取らない率直な態度は、荒くれ者の多い土地では好意的に受け取られ、土地の有力者たちはすぐに子路を心から敬うようになった。
この頃には子路の名は孔子一門随一の快男児として天下に広がり、かつて孔子が子路を評して
「片言もって獄(ごく)を折(さだ)むべきものは、それ由(ゆう)か(訴訟の一部だけを聞いて正しい判決を下す事ができるのは子路ぐらいのものだ。彼は物事を一度引き受ければすぐに実行する)」
といった言葉も知れ渡っていた。こうした評判も、子路が藩の人々からの尊敬を集める一因になっていた。
36.子路の統治
子路が赴任してから3年後。孔子が子路の様子を見に、蒲の地を訪れた。
領地に入った時点で、孔子は子路が「恭敬にして信」であることが分かり、集落に入った時点で「忠信にして寛」であることが、屋敷の敷地に入ったところで「明察にして断」であることを察した。
馬の手綱を取っていた子貢は不思議に思い、その訳を尋ねた。
孔子によれば、田畑は手入れが行き届き、草はきれいに駆られて水路も深く掘られて整っている。これは治者(統治する者=子路)が、人を敬うので、民が彼のことを偉大な人と見てその力を尽くしているためである。
村は家々の塀や家屋が完備し、樹木も良く生い茂っている。これは治者が寛大で正しい姿勢を見せているので、人々が生活をないがしろにしないからだ。
屋敷は清く静かで、従者は誰も指示に背くものがいない。これは治者の指示が明らかではっきりしているので、政治も乱れないからであるとのことだった。
孔子は子路に会わないうちから、彼が統治者として素晴らしい働きを示していることを見て取ったのである。
37.売国奴には与せず
魯の哀公が西の方大野(かたたいや)で麒麟(きりん)を狩ったころ(紀元前481年)、子路は一時期、衛から魯へと帰った。その時、外国の大夫である射(えき)という者が国に謀反し、魯に亡命を求めてきた。当時は他国に亡命した者は、その国に命の保証を誓ってもらうことで、初めて安心できた。
しかし、子路と面識があった射は、子路に保証してもらえば魯の保証は要らないと言った。約束を違えないという子路の評価は、一国の信用に値するとみられていたのだ。
だが、子路は射に安全の保障をすることを断った。
千の国の約束よりもお前一人の信用の方が重いという言葉は、男子たるものこの上ない名誉であったはずだが、子路は射にそう思われることを恥と受け取っていた。
仮に魯と射の本国の間で一事あれば、子路は喜んで城を枕に討ち死にするだろう。だが、射は謀反を起こした挙句に、のこのこ逃げ出した売国奴の卑劣漢である。国のために死ぬ覚悟がある子路にとって、射のような人間の保証人になるのは恥そのものであるというわけだ。
子路を良く知る者はこの話を聞き、いかにも彼らしいと考えて、思わず微笑した。
孔子の作とされる歴史書「春愁」は、哀公が麒麟を獲った(獲麟(かくりん))ところで終了している。本来、麒麟は王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物であり、それを傷つけたり殺したりすることは不吉であるとされている。
だが、太平とは程遠い争乱の時代に麒麟が現れ、しかもとらえた人々はそれが何なのかを理解できずに恐れおののくというのは、かなり異常な事態である。この事態に、孔子は自分の教えが点火に何の安定ももたらしていなかったことに絶望し、魯の歴史書である春愁の執筆を打ち切ったともいわれている。
このことから、絶筆のことを「獲麟」と呼ぶようにもなった。
この年には孔子が高く評価していた弟子の顔回が死去し、翌年には最愛の弟子である子路が死ぬことになる。
38.形ばかりの進言
同じころ、斉の陳恒(ちんこう)が君主を殺した。孔子は三日間神仏に祈って身を清めた後、「義」のために斉を討伐することを哀公に進言した。
だが、哀公は斉の強さを恐れて、孔子のいうことを聞こうとせず、三恒氏の一つである季孫氏と相談するように言うだけだった。季孫氏の現当主である季康子が聞くはずもない。
孔子は無駄と知りつつ、国老の待遇を受けている己の立場上、一応は言っておく必要があった。子路としては、実行できないことを形ばかり提案して済ませるのは、「義」に基づく行動に携わるうえで正しい姿勢なのかと、どうしても納得できない所があった。
39.政変の予兆
子路が都に一旦戻っている間、衛で子路を召し抱えた孔叔圉が死んだ。
その跡は子の悝が名目上継ぐことになったが、未亡人であり、蒯聵の姉である伯姫という人物が政界に進出してきた。弟の蒯聵を重視し、夫の死後から寵愛している渾良夫(こんりょうふ)なる美青年を、蒯聵への使いとして、ひそかに出公を放逐する気を伺っていた。
子路が魯に戻ったころには、蒯聵と定公の間の抗争は激化し、政変の気配が漂い始めていた。
40.主の危機
四十年(紀元前480年)閏(うるう)十二月某日、子路の下に、孔家の老・欒寧(らんねい)からの使いが来た。蒯聵が都に入って孔家に向かい、伯姫や渾良夫と共に悝を脅して、自分を衛の君主として認めさせたというのだ。すでに情勢は蒯聵の側に傾いており、欒寧はこれから定公に魯へと亡命するように進言しに行くところだ。
自分の主人に当たる人物が危機に陥っているとあれば、子路としては黙っているわけにもいかず、剣を手に公宮へと急いだ。
外門に入ろうとしたとき、子路は弟弟子の子羔と出会った。彼は子路の推薦によって、この国の大夫に着任している。子羔によれば内門は閉まっていて、中には入れないらしい。子羔は手遅れだというが、孔家の碌を食んでいる子路は、ここで退く気はなかった。
子路は内門の前まで辿り着き、使いの者が出て来るのと入れ替わりに庭に飛び込んだ。庭は悝の名において、新たな衛の君主擁立の宣言が下されるという名目で、集められた人々で埋め尽くされていた。皆困惑しており、従うべきか逆らうべきか混乱している。
奥にある台の上には、悝が伯姫と蒯聵に取り押さえられ、新たな君主の擁立を宣言させられていた。
(photo by pixabay)
41.君主は冠を正しゅうして死ぬ
子路は群衆の後ろから大声で叫んだ。悝一人を殺したとしても、正義を尊ぶものは滅ぼせない。子路は群衆に向け、亡き孔叔圉の恩に報いたい者は、かがり火を使って台を焼き、悝を救い出すように扇動した。
伯姫と蒯聵は人々が子路に従うことを恐れ、子路に剣士を二人差し向けた。
子路は二人と激しく切り結んだが、練達の勇者といえども年には勝てず、次第に疲労がたまり、呼吸が荒くなってきた。群衆も白の旗色が悪いのを見て取り、強者に付くのが得とばかりに、子路を罵倒し、石をぶつけ、棒で叩いた。
子路の顔を刃がかすめて冠の紐を切り、もう一人の刃が肩先に食い込んだ。
血まみれになりながら、子路は倒れる直前に冠を拾い、素早くかぶって紐を結びなおした。そして、
「君主は冠を正しゅうして死ぬものだぞ」
と絶叫し、最後は膾(なます)(細切りの生肉料理)の如く全身を切り刻まれて絶命した。享年62歳であった。
42.弟子の死
魯の国で衛での政変の知らせを耳にした孔子は、子羔は帰ってくるであろうが、子路は違うだろうと判断した。その予測は当たり、子路の死を知った孔子は佇んで目を閉じ、さめざめと涙を流した。
さらに、子路の屍が塩漬けにして晒されたことを聞いた孔子は、家にあった塩漬けの類をすべて捨てさせ、その後も一切口にしなかったという。
孔子が予想していた通り、子路は尋常ならざる死に方をした。
中国において死体を塩漬けにするのは、死体を長期間保存してさらしものにし、死んだ後に名声を損ねたり、敵対者・反逆者への見せしめにしたりする目的があった。
これほどまでに強いやり方をとったところに、蒯聵らにとって子路がいかに危険な存在であったのかが見いだせる。
悝によって擁立された蒯聵は、荘公として新たな衛の君主となった。
しかしその2年後、荘公に協力していた晋が衛を攻撃し、荘公は放逐された。従兄弟に当たる斑師が新たな君主となったが、その一月後に荘公は戻り、衛の君主に返り咲いている。
それも長くは続かず、同じ月に荘公に恨みを抱く者達が攻撃を仕掛け、荘公は逃げようとして股の骨を折った。そこに、荘公に領土を滅ぼされた戎(じゅう)の者も攻撃を始めた。
護衛も殺された荘公はある家に逃げ込んだものの、そこの家の夫人も荘公に恨みを持っていたので、最終的に荘公は殺されてしまった。この後、衛では斑師が再び君主となった。
子路は悪が栄えることに怒りを抱いていたが、やはり卑劣な方法で手に入れた玉座は長続きしないようである。
まとめ
子路は孔子の弟子の中で、最も長く付き従った者だった。
「弟子」の作中で幾度も触れられている通り、質実剛健で率直、武勇に秀でた人物であっただが同時に、いささか軽率な部分があったと言われる。
この軽率さとはお調子者という意味ではなく、後先を深く考えずに行動してしまう、猪突猛進さの事である。
子路の中には非常にはっきりとした善悪の区切りがあり、「悪」に属する行動に我慢ならない思考を有していた。
孔子は時に目的の達成や職務の遂行のために、本意ではない礼儀や形式を優先することもあった。
子路はこのような「方便」が一切使えない人物であり、素直すぎる、あるいは感情的すぎるところがあるという事であろう。ただ、仕官の際に見せた優れた働きから、非常に有能な人物であったことは確かであった。
そのため、孔子はたびたび子路に説教をしており、論語において、子路は最も登場回数が多い弟子となっている。子路の才能を有効活用できるように、孔子が何とか教え導こうと苦心したことの現れといえよう。
有能だが正直すぎて出世できないタイプの人物は古今東西問わず多く、会社・警察・軍隊などの社会組織をテーマとしたフィクションでもよく登場する。組織からは疎んじられるが、正直さと信条の強さは、人間としては深く慕われる魅力でもある。
天下一の快男児という子路の評価は、まさにこの魅力の現れであろう
しかしその最後は、自分を深く慕っていたはずの蒲の群臣に見捨てられ、石をぶつけられ罵倒された挙句に切り殺される、壮絶なものであった。台を燃やして悝を救おうとする者もおらず、擁立された蒯聵は新たな君主の座に、ちゃっかりと収まってしまった。
子羔が判断した通りに事態は手遅れになっており、子路が命を懸けたところですう勢が変わるようなこともなかった。命には捨て時、捨て所があるという孔子の言葉の通りであった。
それでも、子路はたとえ無駄と分かっていても、己の善悪の基準に照らして悪であるという行動を認めることが出来ず、命を落としただろう。孔子が言った「あの男は尋常な死に方はしないだろう」とは、命を捨てることに関する考え方ではなく、子路の根本的な性格その物が導き出す必然的な結果の予測とも考えられる。
高く評価していた弟子に続いて最愛の弟子をも失った孔子は、子路の死から2年後(一説には翌年)に死去した。
孔子の死後も儒教はあまり流行らなかったものの、紀元前200年~西暦200年ごろの漢の時代に勢力を伸ばし、やがて中国大陸における国家の根幹思想となるに至った。
しかし、孔子が最重要項目とした、人間としての普遍的な愛情を示す「仁」が、その中心であったとはいいがたい側面もある。上下秩序の弁別を重視する側面が、支配階級にとって都合が良かったために採用したとの一面も、ないとは言えない。
ミームは時代によって変化するという良い例だろう。
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